有明海を臨んで・島原鉄道16

02、本諫早(ほんいさはや)Hon-Isahaya


相対式2線の駅です。
また、諫早駅寄りには引き上げ線が2線あります。
この引き上げ線は区間運転列車の引き上げと夜間留置に使われています。
九州鉄道が鳥栖駅から早岐駅、大村駅を経て長崎駅に至る線を建設したとき、
諫早駅は市街地から西に外れた所に建設されました。
そのため、明治31年から島原鉄道が開通する明治44年までの13年間は、
駅から市街地まで行くのが不便でした。
島原鉄道の本諫早駅は諫早の中心地に位置していて、
駅真北には諫早市役所や図書館などの行政機関及び長崎県立諫早高校があり、
北東は諫早市の繁華街になっています。
また、南は住宅密集地です。
諫早駅と本諫早駅は1駅区間ですが利用客が多いため、
区間便が多数設定されています。


本諫早駅の諫早駅寄りです。
右手にNTT諫早ビルの電波塔があります。
先にこの電波塔を紹介したのは、古部駅〜吾妻駅間で、
直線で約14q、島原鉄道線の営業キロで17q強離れています。
島原鉄道に乗ると30分かかるので、
如何に諫早湾の干拓地域が広く、
視界を遮る高層建築物などが無いことが分かります。


本諫早駅を出ると、
県道55号線が右手から近付きます。


県道55号線に沿って走ります。


だんだん丘陵に入っていきます。
右手には諫早市美術館や体育館などがあります。


細かく振りながら勾配を上っていきます。


天祐寺前交差点の下をトンネルで抜けます。
開通時は道路が無く、
ここにトンネルはありませんでした。
天祐寺は西郷氏当主の西郷尚善が開基した寺です。
この寺の境内には島原の乱戦没者追悼碑があります。
島原の乱は、1637年に天草で起きた江戸幕府のキリシタン弾圧に対する抵抗一揆が、
島原半島の南部や西部に飛び火し、
最終的に天草四郎が現在の南島原市にあった原城に籠城した事件です。


天祐寺前交差点下のトンネルを抜けると、
諫早公園の遊歩道下を交差し、
もう一度短いトンネルに入ります。
島原鉄道の現有区間でのトンネルはこの2カ所だけです。
なお、諫早公園は諫早城(高城/亀城)の城跡にあります。
諫早城は天祐寺開基の西郷尚善が築城した寺です。


トンネルを出ます。


崖にせり出した人工地盤が左手に聳え立っています。
人工地盤の上にはレストランやスナックなどがあります。


下り勾配を下っていきます。
左手の崖は低くなり、右手は線路との高低差が少なくなります。


低い盛土区間を行きます。


右カーブになります。


遊歩道の下を交差します。
この遊歩道はV・ファーレンロードと言い、
諫早駅から長崎県立総合運動公園陸上競技場を結んでいます。
地元JリーグチームのV・ファーレン長崎の試合開催日は、
多くの観戦客がこの道を通ります。


JR長崎本線が左手から近付きます。


JR長崎本線の架線柱のビームが島原鉄道線頭上まで渡っていて、
同線の架線が交差しています。
下では国道207号線が交差しています。


JR長崎本線の渡り線が分かれ、
右に線路を振ります。

01、諫早(いさはや)Isahaya


片面1線の駅です。
JR長崎本線とJR西九州新幹線とは連絡通路で繋がっています。


島原鉄道諫早駅入り口です。
特に改札口のラッチもなく、
切符は入鋏省略なので、そのまま乗り場へ行けます。
これは、全線車内精算のためですが、
諫早駅は券売機と窓口が設置されています。
諫早駅はJR西九州新幹線開通に合わせて駅舎を改築したため、
島原鉄道の乗り場も新しくなっています。
駅前広場もかなり広くなり、
駅舎も平屋建てから駅ビル「iisa(イーサ)」に生まれ変わっています。
ただ、その一方、周辺の雑居ビルや工場、大型量販店がごっそり無くなったため、
駅周辺のドーナツ化も始まっています。

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